日本男子論 (2)福沢諭吉

世に道徳論者ありて、日本国に道徳の根本標準を立てんなどかまびすしく議論して、あるいは儒道にらんといい、あるいは仏法に従わんといい、あるいは耶蘇ヤソ教を用いんというものあれば、また一方にはこれをよろこばず、儒仏耶蘇、いずれにてもこれに偏するは不便なり、つまり自愛におぼれず、博愛に流れず、まさにその中道を得たる一種の徳教を作らんというものあり。これらの言を聞けば一応はもっとも至極にして、道徳論に相違はなけれども、その目的とする所、ややもすれば自身にせつならずして他に関係するものの如し。一身の私徳をのちにして、交際上の公徳を先にするものの如し。即ち家にるの徳義よりも、世に処するの徳義をもっぱらにするものの如し。この一点において我輩が見る所をことにすると申すその次第は、えて論者の道徳論を非難するにはあらざれども、前後緩急の別について問う所のものなきを得ざるなり。
世界開闢かいびゃくの歴史を見るに、初めは独化どっか一人いちにんありて、のちに男女夫婦を生じたりという。我が日本において、国常立尊くにのとこたちのみことの如きは独化の神にして、伊奘諾尊いざなぎのみこと伊奘冊尊いざなみのみことすなわち夫婦の神なり。西洋においても、先ずエデンの園に現われたる人はアダムにして、後にイーブなる女性を生じ、夫婦の道始めて行われたるものなり。さてこの独化どっか独生どくせいの人が独り天地の間にるときに当たりては、もとより道徳のようあるべからず。あるいはつつしんで天につかうるなどのこともあらんなれども、これは神学の言にして、我輩が通俗の意味に用うる道徳は、これを修めんとして修むべからず、これを破らんとして破るべからず、徳もなく不徳もなき有様なれども、のちにここに配偶を生じ、男女二人ににんあいとものうて同居するに至り、始めて道徳の要用を見出したり。その相伴うや、相共に親愛し、相共に尊敬し、互いに助け、助けられ、二人ににんあたかも一身同体にして、その間に少しもわたくしの意をさしはさむべからず。即ち男女きょを同じうするための要用にして、これを夫婦の徳義という。もしもしからずして、相互いにうとんじ相互いにうらんでその情を痛ましむるが如きありては、配偶の大倫たいりんを全うすることあたわずして、これをその人の不徳と名づけざるを得ず。我輩ひそかに案ずるに、かの伊奘諾尊、伊奘冊尊、またはアダム、イーブの如きも、必ずこの夫婦の徳義を修めて幸福円満なりしことならんと信ずるのみ。
されば人生の道徳は夫婦の間に始まり、夫婦以前道徳なく、夫婦以後始めてその要を感ずることなれば、これを百徳の根本なりと明言して決して争うべからざるものなり。既に夫婦を成してここに子あり、始めて親子・兄弟姉妹の関係を生じ、おのおのその関係について要用の徳義あり。慈といい、孝といい、ていといい、ゆうというが如き、即ちこれにして、これを総称して人生居家きょかの徳義と名づくといえども、その根本は夫婦の徳にらざるはなし。如何いかんとなれば、夫婦すでに配偶の大倫をみだりて先ず不徳の家を成すときは、この家に他の徳義の発生すべき道理あらざればなり。近く有形のものについて確かなる証拠を示さんに、両親の身体に病あればその病毒は必ず子孫に遺伝するを常とす、人のあまねく知る所にして、夫婦の病は家族百病の根本なりといわざるを得ず。有形の病毒にしてかくの如くなれば、無形の徳義においてもまた斯の如くなるべきは、誠に睹易みやすき道理にして、これに疑いをるる者はなかるべし。病身なる父母は健康なる児を生まず、不徳の家には有徳なる子女を見ず。有形無形その道理は一なり。あるいは夫婦不徳の家に孝行の子女を生じ、兄弟姉妹団欒だんらんとしてむつまじきこともあらば、これは不思議の間違いにして、まれに人間世界にあるも、常にしかるを冀望きぼうすべからざる所のものなり。世間あるいは強いてこれを望む者もあるべしといえども、その迂闊うかつなるは病父母をして健康無事の子を生ましめんとするに異ならず、我輩の知らざる所なり。古人の言に孝は百行ひゃっこうもとなりという。孝行は人生の徳義の中にて至極大切なるものにして、我輩ももとより重んずる所のものなりといえども、世界開闢生々せいせいの順序においても、先ず夫婦を成して然る後に親子あることなれば、孝徳は第二に起こりたるものにして、これに先だつに夫婦の徳義あるを忘るべからず。故に今かりに古人の言に従って孝を百行の本とするも、その孝徳を発生せしむるの根本は、夫婦の徳心に胚胎はいたいするものといわざるを得ず。男女の関係は人生に至大しだい至重しちょうの事なり。

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底本データ
底本: 福沢諭吉家族論集
出版社: 岩波文庫、岩波書店
初版発行日: 1999(平成11)年6月16日
入力に使用: 1999(平成11)年6月16日第1刷
校正に使用: 1999(平成11)年6月16日第1刷