日本男子論 (5)福沢諭吉

そもそも一国の社会を維持して繁栄幸福を求めんとするには、その社会の公衆に公徳なかるべからず。その公徳をして堅固ならしめんとするには、根本を私徳の発育に取らざるべからず。即ち国の本は家にあり。良家の集まる者は良国にして、国力のってもって発生する源は、単に家にあって存すること、更に疑うべきにあらず。しかしこうしてその家の私徳なるものは、親子・兄弟姉妹、団欒だんらんとして相親しみ、父母は慈愛厚くして子は孝心深く、兄弟姉妹相助けて以て父母の心身の労を軽くする等の箇条にして、くこの私徳を発達せしむるその原因は、家族の起源たる夫婦の間にくんずる親愛恭敬の美にあらざるはなし。
およそ古今世界に親子不和といい兄弟姉妹相争うというが如き不祥の沙汰さた少なからずして、当局者の罪に相違はなけれども、一歩を進めて事の原因を尋ぬれば、その父母たる者が夫婦の関係を等閑なおざりにしたるにあり。なお進んで吟味を遠くすれば、その父母の父母たる祖父母より以上曾祖そうそ玄祖げんそに至るまでも罪を免るべからず。前節にもいえる如く、人の心の不徳は身の病に異ならず、病毒の力く四、五世に遺伝するものなれば、不徳の力もまた四、五世に伝えてわざわいせざるを得ず。されば公徳の根本は一家の私徳にありて、その私徳の元素は夫婦の間に胚胎はいたいすること明々白々、我輩のえて保証する所のものなれば、男女両性の関係は立国の大本、禍福の起源として更に争うべからず。今日吾々日本国民の形体は、伊奘諾・伊奘冊二尊にそんの遺体にして、吾々のってもって社会を維持する私徳公徳もまた、その起源を求むれば、二尊夫婦の間に行われたる親愛恭敬の遺徳なりと知るべし。
夫婦親愛恭敬の徳は、天下万世百徳の大本たいほんにして更に争うべからざるの次第は、ぜん既にその大意をしるして、読者においても必ず異議はなかるべし。そもそも我輩がここに敬の字を用いたるは偶然にあらず。男女肉体を以てあいせっするものなれば、仮令たとえいかなる夫婦にても一時の親愛なきを得ず。動物たる人類の情においてしかりといえども、人類をして他の動物の上にくらいして万物の霊たらしむる所以ゆえんのものは、この親愛に兼ねて恭敬の誠あるにるのみ。これを通俗にいえば、夫婦の間、相互いに隔てなくして可愛がるとまでにては未だ禽獣と区別するに足らず。一歩を進め、夫婦互いに丁寧にし大事にするというて、始めて人の人たる所を見るに足るべし。即ち敬の意なり。
然らば即ち敬愛は夫婦の徳にして、この徳義を修めてこれを今日の実際に施すの法如何いかんと尋ぬるに、夫婦利害を共にし苦楽喜憂を共にするは勿論、あるいは一方の心身に苦痛の落ちきたることもあれば、人力の届く限りはその苦痛を分担するの工風くふうめぐらさざるべからず。いわんや己れの欲せざる所を他の一方に施すにおいてをや。ゆめゆめあるまじき事にして、徹頭徹尾、じょの一義を忘れず、形体からだこそ二個ふたりに分かれたれども、その実は一身同体と心得て、始めて夫婦の人倫を全うするを得べし。故に夫婦家にるは人間の幸福快楽なりというといえども、本来この夫婦は二個の他人のあいうたるものにして、その心はともかくも、身の有様ありさまの同じかるべきにあらず。夫婦おのおのその親戚をことにし、その朋友を異にし、これらに関係する喜憂は一方の知らざる所なれども、既に一身同体とあれば、その喜憂を分かたざるを得ず。また平生へいぜいの衣食住についても、おのおの好悪こうおする所なきを期すべからずといえども、互いに忍んでその好悪に従わざるべからず。またあるいは一方の病気の如き、もとより他の一方に痛痒つうようなけれども、あたかもその病苦を自分の身に引受くるが如くして、力のあらん限りにこれを看護せざるべからず。良人りょうじん五年の中風症ちゅうふうしょう、死に至るまで看護怠らずといい、内君ないくん七年のレウマチスに、主人は家業のかたわらに自ら薬餌やくじを進め、これがために遂に資産をも傾けたるの例なきにあらず。
これらの点より見れば、夫婦同室は決して面白きものにあらず。独身なれば、親戚朋友の附合つきあいもただ一方にして余計の心配なく、衣食住の物とて自分一人ひとりの気に任せて不自由なく、病気も一身の病気にして他人の病を憂うるに及ばざるに、ただ夫婦の約束したるがために、あたかも一生の苦労を二重にしたる姿となり、一人にして二人前の勤めを勤むるのせめに当たるは不利益なるが如くなれども、およそ人間世界において損益苦楽は常にあいとものうの約束にして、俗にいわゆる丸儲まるもうけなるものはなきはずなり。故に夫婦家に居て互いに苦労を共にするは、一方において二重の苦労に似たれども、その苦労の代りには一人の快楽を二人の間に共にして、即ち二重の快楽なれば、つまり損亡そんもうとてはなくして苦楽あいつぐのい、平均してなお余楽よらくあるものと知るべし。